相対主義的「失われた十年」クロニクル

秋月りす,
どーでもいいけど」,
ISBN 4-8124-5885-4, \838
Bamboo Comics(竹書房),
2003.12.17 初版
2004.1.8 第2刷

 まーったく,不景気,不景気と言われて十数年,この間全くいいことなし。給料は増えるでなし,周囲に羽振りよさげな知人も現れず,たまーに会う同級生との話と言えば,リストラがどーの,ボーナスがどーの,ローンがこーのといったケッタクソ悪い話題ばかり。さすがに三十路半ばの独り者しか集まれなくなったため(妻帯者は世帯の財務大臣に首根っこ押さえられている),結婚に関する話題は皆無になった。これが唯一の救いか・・・ぐっすん。
 しかしまあ,困ったことにこれが,団塊の世代以上の方々の目指した「豊かさ」の現実なのである。いや,「困った」というのは,大手新聞社・出版社の流すステレオタイプ的表現でしかない。大体今の日本でどれだけ本当に「困って」いるのか,それすら怪しい。
 確かに,自殺者は3万人のオーダーを越え(警察庁発表資料),失業率は5%台をキープしたままである(日経新聞資料)。拓銀も山一証券も潰れ,あれほど沢山存在した都市銀行も,今や東京三菱,みずほ,UFJ,りそな,三井住友・・・と片手で数えられる程に減ってしまった(図体はでかくなったけど)。若年者の就職状況は厳しくなる一方であるし,私も2000万の30年住宅ローンを完済する自信がなくて,泣く泣く理想の分譲マンション購入を諦めたのである。
 しかし,この程度のことを,我々日本人は本当に「困って」いるのだろうか。自殺者の増加は悲劇であるが,残りの1億1千997万人は自らの人生を歩み続けているし,足利銀行が国有化されても,栃木県民以外にそれ程被害が出ているとは思えない(これから払わされるかも知れないが)し,新たにIYバンクが出てきて,ユーザにとっては利便性は増している。若者の就職難は困ったものだが,さて,その中の一体何%が「手に職」を付けているというのだろうか? 「若いからこれから育つ」というポテンシャルのみで企業が人材を確保していたのはバブリーな時代までであろうし,慎重な企業であれば,今も昔も,自分をアピールできる『手に職』を付けているかどうかをきちんとチェックしている。不況と言われて10年以上にもなるのに,いざ本番という場面で,実務的なアピールがろくすっぽ出来ないような人間を誰が雇うというのだろうか。そして,失業していない95%もの方々は,衣食住が全て揃っている筈なのである。給料は確かに上がっていないが,100円ショップがこれだけ繁昌して中国製の食料品がこれだけ増えているのである。贅沢を言わなければ,「食うに」「困る」レベルにある人は少ないはずである。・・・段々わかってきたぞ。何かが変なのだ。日本国民の大多数は大して「困って」いないのである。
 そう,「不景気」と声高に叫ばれるこの状況下では,口が裂けても「繁昌してまっせ」とは言えないのである。確かに,日本国が泡立っていた一時期のように,ボーナスが数百万だの,お立ち台だのワンレンボディコンだのという乱痴気騒ぎが出来る程の稼ぎを我々は頂いていないし,これからも貰えることはないだろう。今の状況はそういう時代に比べて「相対的に」貧しいのは確かである。しかし,一億総懺悔・・・ではない,「一億総不況」に歩調を合わせておかないと,世の中から総スカンを食らいかねない。従って,大して困っていなくても「困った」振りをしているのが,失業者と自殺者を除いた約90%の日本国民の実態なのである。この状況は,何かに似ている。
 亜細亜共栄圏という高い理想を掲げて戦ったあの戦争に負けて,"Occupied" Japanに成り下がった時代が,かつてあった。その時,一人の映画監督は次のように語った(引用元Site 仮名遣いは適宜改変した)。 

 さて,多くの人が,今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知っている範囲ではおれがだましたのだといった人間は一人もいない。ここらあたりから,もうぼつぼつわからなくなってくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別ははっきりしていると思っているようであるが,それは実は錯覚らしいのである。たとえば,民間のものは軍や官にだまされたと思っているが,軍や官の中にはいればみな上の方をさして,上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば,さらにもっと上のほうからだまされたというに決まっている。すると,最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが,いくら何でも,わずか一人か二人の知恵で一億の人間がだませるわけのものではない。
 即ち,だましてきた人間の数は,一般に考えられているよりもはるかに多かったにちがいないのである。しかもそれは,「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家に豁然と分かれていたわけではなく,今,一人の人間が誰かにだまされると,次の瞬間には,もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしたので,つまり日本人全体が夢中になって互いにだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

 この文の内,「今度の戦争」を「今の不況」,「軍や官」を「政や官」に置換すれば,今でもそのまま通用する内容である。つまり,不況脱出策としてハードランディングを唱える少数派の政治家も官僚も学者も民間人も存在していたには違いないが,そういう人材を我々は選択しなかったのである。不況不況と文句は言いつつも,伊丹はイヤだ,痛みはイヤだと先延ばしにして現在に至るのである。そして私も,現状にブチブチ小言をいいつつも,先行きに暗雲が漂っていそうなことはうすうす感じつつも,それなりに充実している・・・いや・・・適度に「困って」いる現状を手放すのを恐れ,メディアでウケのイイ言葉を発しつつも実際には大して変革も起こらないであろうと見抜かれた首相を奉じる政権党に一票を投じた,小市民(この言葉が既に「逃げている」)なのである。

 ・・・危うく本題を忘れるところであった。さて,秋月りすである。コンスタントに受ける四コマをこれだけ長期間に渡って発表し続けている漫画家はそうそう多くない。いしいひさいち,長谷川町子という超別格を除けば,男性では山科けいすけという存在が思い出される程度である。大衆ウケしていそうなのは,どちらかと言えば山科の方で,秋月の読者はおとなしめの女性とインテリ(自分がそうだと言いたい訳ではないぞ)層に偏っている気がする。というのは,秋月の四コマが大学で使用される教科書に登場しているのを過去二回,目撃しているからである(単に許諾が得られやすかっただけなのかも知れないが)。
 秋月の四コマはどれの作品を見ても構造が全く同じだ。かつて秋月の作品が嫌いだと公言していた知人は「文字が多すぎてイヤだ」とのたもうていたが,これは正鵠を得た指摘だと思う。山科はどちらかと言えばシチュエーション(絵を含む)と台詞で落とす(転結する)のに対し,秋月の作品はほぼ100%,台詞で転結するのである。ギャグ好きにしてみれば,「パンチが足りない」と感じることも多いだろう。
 その点は否定しない。しかし,彼女の作品は一貫して「ほのぼの」に流れていかないのである。この一途さは清々しいものがある。
 この一途さの源泉は,相対主義にある。かつてサヨクが育成し,ウヨクがそれを攻撃して勢力を伸ばすと,サヨクはそれをあっさりと投げ捨ててウヨクと同じナショナリズムという土俵でがっぷり四つに組んでしまった,その「相対主義」である。小林よしりんの嫌いなアレだ。秋月は相対主義の正しい信奉者であり,それを適切に笑いのネタに昇華させている。例えば,1997年のネタとして,自分の作った怪しげな商会からの資金を私的に流用していた(元?)参議院議員の奥さんが,一億円の買い物「しか」していなかったので「つつましい」と妻がため息をつくものがある。議員本人が91億円,その息子が20億円も使っていたのに対して,相対的に少なかっただけなのだが,そこを夫からドつかれるオチがついている。一事が万事,この調子である。所謂「庶民の怒り」をストレートに書いたネタは一つもない。
 もう一つ例を引こう。1996年のネタだ。ここには三人のお父さんが登場する。一人は「バブルのころ,遠くて小さくて高い家を買いローンを背負い,今も二時間かけて通勤するお父さん」。二人目は「地震で家が潰れたうえ保険金もおりず,ローンだけ残ってしまったお父さん」。三人目は「老後は退職金の利子で旅行するのを楽しみにしていたお父さん」。こういう人々が何故暴動を起こさないのか!と,多額の税金がぶち込まれた「住専処理」を報じる新聞を読み,歯がみする妻に対して,夫は一言,こうのたもうのである。「(このお父さん達は)そんなことできないタイプの人たちだと思うなあ」。・・・その通りだ。みんな,私と同じ小市民なのである。秋月はそんな小市民を相対主義の観点から冷静に眺めて我々に四コマ漫画として提示しているのである。そうして,小市民たる我々は,ははは,と力無く笑っちゃうのである。
 かつていしかわじゅんは,「庶民」と銘打たれた男が,「政治家」と名乗る札ビラを抱えて高笑いする男に踏みつぶされる絵を描き,これは永久に使える風刺漫画である,と宣言した。そうした大時代的な低レベルの大人漫画が新聞や雑誌に溢れていた頃,そのマンネリズムを鋭く指摘したギャグであった。そして秋月りすは,そこから更に一歩踏み越えて,既に古いと右や左から唾棄されている相対主義を土台とし,自身の姿勢すらギャグにする徹底さで,自称「庶民」におもねらない「語り落ち」の四コマをコンスタントに発表し続けている。その視線の先には,痛みを恐れてひたすら現状維持を願う我々小市民がいる。「だまされている」と信じ込んでいる我々がいるのである。
 秋月が自ら「だまされたい」側であるかどうかはこの際問題ではない。重要なのは,だまされていると信じている民衆の中に,彼女の相対主義の,熱烈ではないが信奉者が少なからず存在している,ということである。そしてこの人達は,この先,日本が沈むにしろ昇るにしろ現状維持にしろ,自らの境遇に関わりなく,秋月の相対主義ギャグに笑うに違いない。そしてそういう人々は決して日本の国力たり得ない,いてもいなくても「どーでもいい」人々なのである。そしてそのどーでもいい人々に支えられて,本書は新年早々第二刷を刊行するに至ったのである。

 全くねぇ,これで日本はだいじょーぶ・・・か?
 でも,やっぱり秋月りすはいいのである。と,どーでもいい小市民は,だからこそ,断言するのである。


by Kengo Takayoshi

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