つかの間の健康ランド生活に幸あれ

中島らも,
「アマニタ・パンセリナ」,
ISBN 4-02-261347-5,
集英社文庫,
2001.8.1 第1刷.

 「頭がいい人は可哀想だ」という定説がある。私はこれをバカの戯言,そねみから来る妄言だと思っていた。自分がバカであることを自覚する前の愚かな子供時代は「頭がいい」ことがステータスだったのだ。そして,自分は賢いと確信していたのである。
 しかし,大学入試追い込み直前に馬力が出せず,入試のために上京していた時には遊び狂ってしまい,本命の国立大学とを滑ったあげくにお情けで拾ってくれた千葉の大学では危うく留年しかけ,Quick Sortが理解できずに質問した教員(I大学のO先生,お元気ですか?)に「君はバカだから分からない」と直言されるに至って,ようやく自分が賢くないことを悟ったのである。故に,現在ではバカでも何とかこなせるお仕事に従事しているのである。
 しかし,どこの職場でも賢い人はいるもので,ことある毎に自分のバカさ加減を自覚させられることになる。同時に,「バカで良かった」と感じることも少なくない。
 私が常々仰ぎ見る賢い人のうち,かなりの割合で,その人達は辛そうに見えるのである。頭の回転が速いが故に,私のようなバカには分からない苦悩を背負ってしまうものらしい。ま,反対にトコトン楽天的な天才もいらっしゃるが,こういう人は一見するとバカにしか見えないので,頭が良いことを発見するには長いつき合いが必要である。「苦悩する天才」が目立つのはこの辺りの事情が絡んでいるのかもしれない。しかし,そういう事情を割り引いても,「賢い=幸せ」とはいかないようなのである。
 バカだからこの理由を短絡的に考えることにしたい。つまり「世の中がそうなっている」のである。
 ソ連を中心とした共産圏が崩壊したのは,アメリカ合衆国や西欧を中心とした資本主義諸国との経済競争に負けたせいだと言われている(よね?)。資本主義を支える自由競争の原理は,人間の欲求をテコにして流血沙汰にならないバトルをトコトンやらせることにある。現実は兎も角,共産主義の原理ってのはそれとは異なる理想主義的なものだった筈である。結果として,理想は負け,ぎりぎりまで競争させることがグローバルスタンダードになりつつある。「自由な」競争と言えば聞こえは良いが,そこで勝つためには,精神的,肉体的な努力と忍耐が必要である。頭も体も鍛え,他者を抜きん出なければならない。勝つことで本能的な快感を得,経済的な豊かさをわがモノにすることが出来る反面,脱落者も数多く出ることになる。その果てには段ボールハウスが待っている訳だから,例え2番手3番手・・・n番手に成り下がっても,それ以下にならない努力は最低限必要なのである。故に,生きていくためには例外なく,競争しなければならない。もっとも,自分の能力を弁えて,「この辺りの連中との競争なら何とか付いていけそうだ」というレベルを知れば,自由競争社会といえどもそこそこ食っていける。現在の私はこの「そこそこ食っている」段階にいるのである。
 大変なのは,トップ集団に属している賢い人々である。勿論,その中でも悠々と競争している「楽天的な天才」は存在する。しかし,自分の持つ能力を目一杯使って青息吐息の人たちも多い。ゴールは人によって異なる。死期が来るまで,あるいは競争を諦めて脱落するまで,この戦いは続く。賢い人々はそれを自覚している。バカな私は,多分,その辺が「辛そうに見える」原因なんだろうと類推するのが精一杯である。そして「バカで良かった」と感じるのである。バカの特権。
 中島らもが逮捕された(→毎日)と聞いて思ったのは,やっぱり「賢い」が故の辛さが原因なんだろう,ということだった。アーティストがイケナイお薬に手を出すのは,まあ,いつものことである。井上陽水,槇原敬之等,名前を挙げればきりがない。まして,中島らもに至っては,『 “いまごろ逮捕か,やってないわけなかったじゃないかこの人物が”という感じ』(唐沢俊一さんの日記より)なのである。どのニュースサイトでも,吉川英治文学賞作品「今夜,すべてのバーで」を挙げ,かつてアル中であったことは触れていたが,その中で読売新聞は,赤裸々に薬物体験を語っていた旨を唯一ちゃんと伝えていた。その体験談を思う存分(但し,タイホされない範囲で)語ったのが本書「アマニタ・パンセリナ」なのである。
 今回の容疑の決め手になった物証として,大麻とマジックマッシュルームが押収されたそうだが,どちらもちゃんと本書に掲載されている(P.120〜「ドラッグその六・・・毒キノコ」,P.162〜「ドラッグその九・・・大麻」)。執筆時期(1995年に単行本発行)にはまだ「マジックマッシュルーム」という言葉が定着していなかったようだが,まあ,同じようなモンでしょう。最近文庫化された「さかだち(「酒断ち」の意)日記」を読んだ人は,タイトルに反して,ちっとも「酒断ち」していないどころか,コーヒーショップ(あえてその意味は秘す)目当てにオランダにまで著者が出かけていることを記憶している筈だ。故に,今回の逮捕劇を聞いて「今頃タイホか」と思うのは,私も含めた中島らもファン共通の想いなのである。また,中毒になってしまった理由についても,本書や他のエッセイを読んでいれば熟知している筈だ。それはアーティスト共通のものと言える。俗な言い方をすれば「執筆のストレス」ということになるだろうし,「自由競争の辛さ」に起因するモノと言える。談志の言を借りれば,アーティストの業(ごう)ということになろうか。
 「そんなに辛ければ,競争を止めればよい」と言えるのは,私も含めた,身軽なバカの勤め人だけだ。らもには事務所のスタッフも,リリパットアーミーも,家族も,そしてらもの作品に依存して成立している出版社と編集者をも養う義務が生じている。作品を待ちわびる読者の期待にも背けない。その義務から解放されたとしても,果たして体のシンからアーティストな人間が作品を作らずに生きていけるものだろうか。
 競争しようがどうしようが,中島らもは,賢いが故に生きていくのが辛い,逆説的な言い方をすれば,特権的な人なんだろうと推察する。彼が作り上げる作品はひどく魅力的だ。幸い,それが理解できる程度にバカな我々は,ブロン中毒になって酒をかっくらってへろへろになった作家に群がっている。そして口々にこう叫ぶのである。
 「もっと書け」
 「もっと楽しませてくれ」
 正しいらもファンなら,このぐらいの自覚はあるだろう。そしてまた,刑期を終えて出版されるであろう,らも版「刑務所の中」を待望している筈だ。クスリとは無縁の健康的なムショ暮らしの中,晴れ晴れとした頭で日々執筆されて積み上げられていく手書き原稿に思いを馳せながら,バカな私は日々の程々の競争に身をやつしつつ,裁判が始まるのを心待ちにしている。
 あー,バカで良かった。

-> 「牢屋でやせるダイエット」に続く。


by Kengo Takayoshi

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