Under Atomic Sunshine, we were, are and will be.

武田徹,
「『核』論 - 鉄腕アトムと原発事故のあいだ -」
ISBN 4-326-65272-1,
勁草書房,
2002.11.20 第1版第1刷.

 「私語りが続くシャベリはつまらない」と,あるベテランDJ(アナウンサーだったかな?)がラジオで発言していた。「「私はこう思うから・・・」「私はこう感じるので・・・」なんて語りが続いちゃうと聞いている方は飽きる。」 従って,私語りは最小限に留めるべき,なんだそうだ。まあ,私語っている当人が衆目を集める有名人であれば兎も角,どこの誰とも分からぬ市井の一庶民が大上段に天下国家を自分の視点で語っても,だーれも聞いちゃくれまいよ。
 と言うわけで,その指摘は正しい。正しいが,さて,どこの誰とも分からぬ市井の一庶民が,果たして,自分を主語にして語ることなしで何かを発信できるのだろうか? 文章でもよい,喋りでもよい。発端に使うネタを,私語りなしに見つけてくることがいかに困難なことか。そう,私語りは本題に入る前のネタ振りとして,走り幅跳びにおける助走の役割を果たすことが多いのだ。当たり前だ。「私」の体験・思想を土台に,全ての情報は発信されているのだから。制約の少ないWeb上の文章に私語りが多いのは当然なのである。それが書き手以外の人間にとってはつまらないものでも,Web記事執筆がメシの種になっているのでなければ,何の問題もない。どんな発端でも書き出せばしめたもの。発信できないよりは数段もマシ,なのである。
 と言うわけで,まずは私語りから始めたい(ぉい)。
 現代の日本に住んでいて,原子力,即ち核分裂反応に基づくエネルギーと全く無縁ではいられない。私の場合(そらきたぞ)は,まず父親が北海道電力に勤めていたということから始まる。どういう訳か,父方の叔父二人も同社に勤務していた。従って,Kouya一族の生計は北海道民の電力料金支払いによって支えられていたことになる。私が父親のスネをかじっていた頃,北電も他の電力会社に追随して積丹半島の泊村に原子力発電所を建設しようとしていた。そのため,ハンタイ派の方々が大通りの北電本社ビルのフロアに座り込むなどの騒ぎがあり,本社勤務だった父親は帰宅後,そのニュースを見ながら「ハンタイするなら電気使うな!」とブツブツ漏らしていた。泊原発は様々な悶着を引き起こしつつ,どうにか完成し,北電全体の電力のうち18%を賄うまでになっている。
 次は高校生の時だ。札幌の某市立高校に転校して一年が過ぎた頃,文化祭となった。その企画として,何をトチ狂ったのか「原爆展」(広島・長崎)をやりたいと,どうやら申し出たらしいのである。・・・この辺り,記憶が曖昧なので,なんでまたそーゆーこっぱずかしいことを言い出したのか,訳が分からない。どうも,カールセーガンの「核の冬」を読んだり原爆の記録写真集を眺めていたりした影響ではないかと思うのだが,全く,こうやって書いていても冷や汗が出る。まあしかし,いかにもマジメな企画であるから,担任のムラヤマ先生が張り切って札幌市から被爆者のケロイドやら広島の廃墟の写った写真を借りてきてくれて,まあなんとか企画をやり遂げた。あんまし見て気持ちの良いものではないから,見学者も多くはなく,大して反響もなかったように思う。
 三度目の原子力との接点は,学部の卒研で入ったゼミの教官(R大T先生)が熱心な原発のハンタイ派であった,ということだ。尤もこのT先生は,自分の思想信条を学生に押しつけるタイプではなく,むしろある程度距離を取らないとうまくコミュニケーションが取れない恥ずかしがり屋の面があり,「自分は原発ハンタイ派だ」ということ以外のシチ面倒なハンタイ派の理屈を聞かされたことはない。
 四度目は就職してからだ。最初の赴任先が自分の意に反して能登半島のド田舎であった。これは別段左遷されたということではなく,単に希望者がいない場所なので,まずはしがらみの少ない入りたての若手を赴任させるしかなかった,ということであるらしい。その証拠に,仕事のノルマは都会の施設と同じ分量で割り当てられた。ために,人口の多い金沢方面まで出張することがやたらに多かった。
 さらに面倒なことに,この就職先は強力な組合組織(組織率90%超!)を抱えていたのである。連合系の組合なので,主義主張はそれ程真っ赤ではないが,当然,原発についてはハンタイ派の片棒を担いでいた。保守的な土地柄で,しかもド田舎であったから,まともな組合組織は地方公務員のつくる自治労と日教組,そして私の在籍していた労組しかない。従って,「原水爆反対デモ」なぞをやろうにも人手はこの3組織から引っ張ってくるしかなく,町内の小学校の先生や連合専従職員の方々と一緒に小さな町を赤旗掲げて「原水爆ハンターイ」なぞと威勢のあがらぬシュプレヒコールを叫ばされるハメになる。私なぞはまだいいが,一緒にいた小学校の先生などは,学校が終わった低学年の担任クラスの生徒とおぼしきガキどもに「センセーなにやってんの?」とからかわれていた。教師の威厳などあったものではない。
 挙げ句の果てに,一度は原発の監視行動なぞにも駆り出されることとなった。能登半島には志賀原発があり,そこでは年に一度か数度か,事故を想定した訓練を行っている。その際,原発職員が周囲のあちこちをパトロールすることになるのだが,それを更に監視しろというのである。全く馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。しかも勤務時間中に抜け出して,自分の車を駆って原発のパトロールカーを追尾し,不審な行為があれば報告しろときた。くだらない行為だが,つき合いだから仕方がないと午前中の数時間,志賀原発職員の方々の仕事ぶりを観察させて貰った。皆さんマジメで,訓練とは言え,風の強い雨交じりの天候にもかかわらず,きびきびと何やら仕事をこなしておられた。一度,報告用紙だと思うが,風で吹き飛ばされたのを私が車から降りて拾い,手渡したことがあった。この時,私と職員の方との間で「いやあ,お互い大変ですなあ」と言葉を交わした。お互い敵同士でありながら,上からの力で下っ端仕事をさせられている点は同じ。そんな事実をこの時,嫌というほど思い知らされた。
 で,今はというと,幸いなことに職場に労組はなく(これはある意味で不幸なことでもあるが),スイシン派の圧力もなく,それなりにニュートラルな立場でいられる職に就いている。が,原子力とは全く無縁ではない。それ程遠くない場所には,立て続けに事故を起こした浜岡原発が存在する。
 とまあ,延々と自分語りをしてしまった訳だが,さてかような原子力との関わりを持ってきた私は,果たして特異な部類に属するのだろうか? まとめると,次の5つの関わりがあったことになる。1.「原発の作り出した電力を売って得た収益で食わして貰っていた」,2.「写真展示だけとはいえ,原爆展を開催した」,3.「卒研教官が原発ハンタイ運動に参加していた」,4.「原発ハンタイ派の労組で下っ端仕事をやらされた」,5.「原発からそう遠くない地域に住んでいる」。この全てに当てはまらないという人でも,0.「我々は原子力発電による電力にかなりの部分依存している」という事実は否定しがたい筈だ。夏にエアコンの冷気にあたらずに過ごすことが不可能なぐらい,今の日本は快適な室温に慣れてしまった。更にまだある。−1.「日米安保の枠組とは,アメリカ合衆国の核の傘に入ることに他ならない」。非核三原則? それが確実に遵守されているとしても,日本の防衛の背後に核ミサイルを持った超大国が控えているという事実がなければ,果たしてどうなっていたことか。このような現状,エネルギー資源としての原子力と,抑止力としての核ミサイルに依存している現状をうまく言い当てている言葉がある。
 「原子力的日光の中のひなたぼっこ」・・・アメリカの高官が語ったとされるこの一節が,危険な思想家(と呼ぶ人がいるらしい),武田徹をして本書を執筆させる大きな原動力となった。
 内容については,かなり広範囲に渡る,しかも詳細な調査と引用に基づく評論だけに,言論のシロウトである私が端的に語るのは不可能だ。260ページ程度の,決して厚くはないボリュームにもかかわらず,読了後は拭いがたい倦怠感が残る。武田には「不偏不党に偏らないイデオロギー」が染みついているとしか思えない。原発スイシン派にもハンタイ派にも,鉄腕アトムにもゴジラにも「なんとなく,クリスタル」にも,オッペンハイマーにもフォン・ノイマンにも,清水幾太郎にも高木仁三郎にも是々非々の態度で臨む。結果,心地よい結論は決して導かれない。「考え続けなければならない」,そうとしか言ってくれないのだ。それは多分,正しい認識なのだろう。それ故に,大多数の人は「早すぎるリリースポイント」を分岐点に,各種の「運動」へと参加していくことになるのだ。私が自覚した5つの原子力との接点は全て,なにがしかの運動につながるものだった。そして今の私は消極的な現状肯定派に成り下がっている。0とー1は仕方がないとあきらめて受け入れ,それ以外の運動とは徹底して距離を置くようにしている。このような着地点の是非は兎も角として,どこかの位置に着地するには,なにがしかの運動に巻き込まれない限り難しいのではないか。そのような体験を経てしか,大多数の人間は「着地」できないのではないか。そんな気がする。
 原子力に関わる各種の運動とそれを支える各種の思想にある程度触れ,忌避したり受容したりする。その結果,「着地」した時,本書をもう一度通読してみる。そして「原子力」というものの自分の内部における位置づけを考える。そのための材料として役立つに違いない。但しそこには霧がかかっているのだ。


by T.Kouya

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